2023年を振り返って
いろいろな表現方法を試みた一年だった。まだまだ自分でしか描けないものは何なのかつかめないまま。
五月に画材店で「白抜き一発液」を手に入れた。それまではドウサ液を使って白抜きをしていたが、この液を使って描いた後、裏から墨などをかけるのだが、見事に表の画が抜かれてうかびあがるのだ。黒地に描くのと変わりないように見えるが、微妙に空間の感じが出て気に入った。使う用紙は知人からいただいた「八重雲」。この紙の滲み具合がとてもいい。
これを使って描いたのが、平和美術展の「麦秋」、地平展の「籾の歌Ⅰ・Ⅱ」(左は「籾の歌Ⅰ)
まだ題材が限定的で、さらに広げる構想を練っている最中。何とかものにしたい。
コロナ禍は何とか乗り越え、コロナ前に戻りつつあるが、コロナの期間中にある意味定着した習慣でそれなりの合理的なものが、コロナ以降も続いているのを見ると、こんな風に習慣というものも変化していくのだな、と思う。お葬式のやり方や、今まであまり必要でもなかったつきあいなど。会議もすっかりZOOM慣れして、わざわざ時間とお金をかけて東京まで行かなくてもすむものが増えた。ただ、今まで会議のついでにでも行っていた展覧会を見る機会が減ってきてしまった。そのかわりというわけでもないが、県展や中信美術展など地元の展覧会に関わる機会が多くなった。自然の成り行きなのかもしれない。
もう半世紀以上も絵を描き続けてきて、この頃、自分の代表作は何かを考える。実に駄作がいっぱいだが、これは残しておきたいというものもいくつかある。まだこれから新作の制作は続くが、その辺を考えながら、百瀬邦孝が「生きた証」を整理していくこともこれからの仕事だ。
2022年を振り返って
2022年の一番の仕事は、1月から8月まで毎日赤旗日刊紙で連載された、井上文夫さんの小説「曙光へテイクオフ」の挿絵236枚を描き上げたことだ。JAL不当解雇撤回の闘いを書いたこの小説は、「あなたは必要ない」などと大企業の身勝手なな整理解雇に立ち向かい、人として、労働者としての誇りをかけた闘いであり、いまなお「JAL被解雇者労働組合(JHU)」の全面勝利へ向けた闘いが続けられています。「JHU青空チャンネル」をご覧ください。
2022年2月に突然引き起こされたロシアのウクライナ侵略は、第二次世界大戦以降、積み上げられてきた世界秩序を根底から覆す暴挙であり、世界でも日本でも「ロシアはウクライナから即時撤退せよ」の声は一気に広がった。山形村でも「戦争体験を引き継ぐ山形村の会」の毎月のスタンディングで訴えを続けた。その後の「国葬」問題や、大軍拡・増税に反対するスタンディングも続けられた。何でもかんでも国民や国会にはかることなく、閣議決定で決めて既成事実化していく政権の横暴に怒りが止まらない。
依然としてコロナ禍が終わりを見せない。人と人の交流が断ち切られていくことに何とも心が痛み続けているが、大丈夫な人同士の集まりならば大丈夫なんだという「勝手な解釈」で、それなりに酒の席も。コロナ以前の安心さはいつになったらかえってくるのか。
作品制作は地元での中信美術展、県展、地域現代作家代表作展、平和を愛するあなたへ展、梓川展、老いるほど若くなる展などへの出品。東京などでのアンデパンダン展、九条美術展、平和美術展、アートコンフューズ展、地平展などで、ほとんどコロナ前の展覧会が復活してきている。が、鑑賞案内も含めまだなんとなく遠慮気味だ。新たな創作展開をすすめていくことを新年の課題に据えて行こうと思う。
2020年を振り返って
2020年はコロナ禍によるアンデパンダン展の中止から始まった。搬入前日のぎりぎりでの中止判断は大変なことだった。以来年間を通して各種展覧会の中止が続き、自宅での自粛が余儀なくされた。そんな中、6月のアートコンフューズ番外編、9月のアートコンフューズ、10月の地平展などの開催は一筋の希望だった。主として感染の主な場が会食などの場にある事、必要最小限の人の移動、万全な感染防止対策などにより、一定の効果が出始めたころの希望だったが、年末にかけての政府の人災ともいうべき無為無策と人為的人の動きの扇動はあらためて右上がりの感染拡大を続けさせている。
そんな中、自分の作品の整理も兼ねて、WEB日本画展をユーチューブで配信始めたことは、新しい試みであった。実物の作品との出会いではないものの、今までの個展では見てもらえなかった全国の人たちに見てもらえたことは、それはそれで有意義な結果であった。自分の作品の一つ一つが、自分の制作歴の中でどのような位置にあるのか、作品全体として自分が描いて来ようとしたことは何であったのかなど、あらためての見直しであった。
おそらく、これからの制作期間は20年余りであろうが、この2020年はこれからの晩年期に向けてどう歩んでいくかの節目であったことは間違いないだろう。
2019年を振り返ってみますと、もっとも注視すべき問題は「表現の不自由展」中止問題でした。日本美術会は即座に抗議声明を発表。表現の自由を断固守りぬくことを内外に表明し、世論を喚起しました。この問題もきっかけに、私の作品に「土人間の叫び」を登場させました。アートコンフューズ展では「土人間の叫び―不自由からの脱出」を、地平展には「土人間の叫び」、さらに九条美術展にも別の作品「土人間の叫び」を出品しました。畑の土をボンドで溶き、地球と土人間を、縄で土人間の手足を作り、環境・原発・民主主義・平和などの地球の底からの叫びを表現しました。今までの「化石」シリーズをもう一つ進めた思いです。もう一つの変化のきっかけは、このホームページでの紹介の横山華山の作品との出会いから、蕪村・応挙・北斎などの作品の線について学び始めたことです。まだ入り口ですが、あらためて日本画における線について考えていきたいと思っています。
今年は日本美術会の常任委員長を受け、地元でも中信美術会の委員、信州美術会の会員としていろんな仕事が増えてきました。世の中の変革も面白い兆しがみえてきました。新しい年をエネルギッシュに迎えたいと思います。
2020年を迎えるにあたり一首
嘘とごまかし
国民を馬鹿にしつくすこの政治
もはや過去とし 創る新しき世
邦孝
3.11の後の沿岸を北から南へ下った旅の印象は今も鮮明です。 それは、「こうだった」「こんなになっていた」という説明的なことではなく、 「何もなかった」ことでした。 何もないということはどういうことなんだろう、と。
そして、突然、原発により生活の場を追われ、「誰もいなくなった」ことの恐怖は語りつくせない事だったに違いありません。
多くの画家たちが、見えない放射能を描こうとしましたが、描けるわけがありません。
私の友人の写真家が、見えない放射能の姿を撮ろうとしましたが、とても難しかったようです。
でも、何もないことを描くことをあきらめるわけにいきません。
そんな時、ある詩に出会いました。「夕焼け売り」です。福島に住む齋藤貢さんという詩人です。早速、その詩集を取り寄せました。「何もないこと」「誰もいないこと」とは、こういうことなのかもしれない、と、そのリアリズムにいたく納得したのです。
夕焼け売り
この町では
もう、夕焼けを
眺めるひとは、いなくなってしまった。
ひとが住めなくなって
既に、五年余り。
あの日。
突然の恐怖に襲われて
いのちの重さが、天秤にかけられた。
ひとは首をかしげている。
ここには
見えない恐怖が、いたるところにあって
それが ひとに不幸をもたらすのだ、と。
ひとがひとの暮らしを奪う。
誰が信じろというのか、そんなバカげた話を。
だが、それからしばらくして
この町には
夕方になると、夕焼け売りが
うばわれてしまった時間を行商して歩いている。
誰も住んでいない家々の軒先に立ち
「夕焼けは、いらんかねぇ」
「幾つ、欲しいかねぇ」
夕焼け売りの声がすると
誰もいないこの町の
瓦屋根の煙突からは
薪を燃やす、夕餉の煙も漂ってくる。
恐怖に身を委ねて
これから、ひとは
どれほど夕焼けを胸にしまい込むのだろうか。
夕焼け売りの声を聴きながら
ひとは、あの日の悲しみを食卓に並べ始める。
あの日、皆で囲むはずだった
賑やかな夕餉を、これから迎えるために。
2018年の一年は・・・。一年間の創作を振り返って一番の出来事は、新年早々の寺町美術館の個展でした。民主文学の表紙絵を中心に、最近の新作を見てもらいました。多くの皆さんとの出会いがありました。民主文学の表紙絵はもう一年続けることになりました。二つ目は地元の美術展のいくつかに出品出来たことです。梓川展では出品作品「氷田」を収蔵していただき、梓川近辺の12人の画家の展覧会に加えてもらいました。県展、中信美術展、長野・人ミュージアムでのまほろば展、諏訪の平和を愛するあなたへ展、NHKカルチャーの日本画展などにも出品、信濃美術会の会員にもなりました。地元での創作活動にこれからもがんばっていきたいと思います。三つめは3・11以降のシリーズ「誰もいない」「ひび割れ」「化石」「化石化への時空」「化石化という記憶装置」「たしかにそこに人がいた」に続く「影-不在の影」を始めたことです。地平展(2018.9)、アートコンフューズ展(2018.10)、九条美術展(2019.1)に続いて3月のアンデパンダン展でも「不在の影」をテーマに出品します。次々と展覧会の出品に走り続けた一年でした。来年はじっくりと創作する時間とゆとりを見つけながら歩んでいきたいと思います。
梅雨の夜の会話
いやだね
ああいやだね
憲法九条が危ないね
ああ憲法九条が危ないね
それは戦争への道だね
戦争への道はいやだね
声出さないとね
君もずゐぶんがんばっているからね
ほんとうに大切なことはなにかね
平和だね
平和とったら死ぬだらうね
死にたくはないね
いやだね
ああ憲法九条守らないとね
邦孝 (2017.6)
草野心平「秋の夜の会話」をお借りして…
2016年もあと一週間で終わります。なんと言っても今年一番の出来事は12月の地元山形村での個展です。長野に移って5年目になりますが、この間、地元の人たちに私の作品をどのように紹介できるだろうか、といろいろ考えてきました。2月の梓川賞展や6月の県展での受賞もあり、是非村で展覧会をやってみたらどうか、との励ましもありまして、思い切って会場のトレーニングセンターを借りに行ったところ、丁度12月14日から5日間空いていて即決断となりました。トレーニングセンターは講堂・会議室で展示する施設は全くなく、展示方法を考え、また旧作品だけではと新たな作品の制作と二ヶ月間は準備に没頭でした。
地元での開催ということもあり、親戚、旧友、絵の仲間、知り合いの方々がいろいろ加勢してくださり、何とか実施の運びとなりました。個展には200人もの方々が見に来てくださいました。地元の新聞「市民タイムス」や「信濃毎日新聞」などで紹介してくれたこともあり、松本、大町、筑北、塩尻など県内各地から駆けつけてくださったり、一度見た方が家族やお友達に紹介してくださったりして本当に多くの方々が見てくださり、賛意と励ましを寄せてくださいました。特に、地元農家の方々が作品を見て「懐かしい源風景がここにあった」「ここにいると落ち着く」など共感をもってもらえたことがよかったと思います。
これからの創作と地元での生き様に大きな力を与えてもらった個展でした。来年に向けて頑張っていきたいと思います。
今年は赤旗の挿絵が2月で終了し、さっそく7月の個展の準備に入りました。なかなか制作の方向が定まらずいろいろ手掛けては考え直す繰り返しでした。その間もアンデパンダン展、新しい人の方へ展、県展などに参加し本格的な個展の作品制作は6月から7月という押し迫った状況でした。個展会場を予約したのは冬でしたので個展期間があんなに暑い時期だったとは大きな誤算で、見に来てくれた人に迷惑をかけてしまいました。友達の差し入れで取れたてのスイカを持って行ったところ好評で、絵よりスイカをほめてくれる人が多かったのは喜んでいいのか、悲しんでいいのか…、でも多くの人にじっくり見ていただいて満足の個展でした。その後も平和展、コンフューズ展、地平展と忙しい一年でした。一つ一つの作品にもっと時間をかけて密度を高めなければと、反省しております。
戦争法に反対の一年でもありました。集会参加やチラシ・後援会ニュースの発行に、今年は絵友達の小池仁さんの戦争体験記「戦争をしてはならない本当の理由」の編集・発行を行いました。この本は現在全国に七百部を超えて普及され、戦争法案反対の運動に一役かいました。来年の2月24日から4月10日には、東京空襲戦災資料センターで「小池仁油絵展及び『戦争をしてはならない本当の理由』(画文集)原画展」が開催されることになりました。うれしいことです。
今年は暖冬ですが、雪がちらつく12月です。生まれ育った長野に移ってしばらくになりますが、この地で創作と平和にかかわりながら根を張って生きていくには、まだまだ長い時間がかかります。少しづつ少しづつ歩んでいきたいと思う年の瀬です。
今回展の出品者は23名ということで、事務局からなんと「壁がうまらない!一人8から10メートル分の作品を用意せよ!」という緊急の訴えがあったことで、出品者一同かなり奮起したのではないだろうか。新作で参加した人も若干前の作品も併せて展示した人もいたが、一人1、2点の展示と違って、旧作も含めたとはいえ一人4から8点のまとめた展示が出来たことがかえって出品者一人一人の仕事の様子や画歴の一端を紹介出来て効果的だった。展示では結局袖を三列も出さなければ展示できないほどの作品数となって、「いったいどういう計算をしたんだろう」との疑問は消えなかったが、美術集団「地平」の底力を改めて感じさせてくれたことだ。
「地平展」は創作に関して「挑戦と冒険」をさせてくれるところだ。この精神がないと続けていけない。ともすれば無難に納めてしまいがちになる気持ちを、「それではいけない」と叩いてくれる。「地平展」が自分の創作展開の中にそういう位置をしめることで、年間10回前後出品する展覧会の流れが出来てくるように思っているところだ。
最近「設立宣言」にこだわらなくなってきていることはいい事だ。一時期、「設立宣言」の精神に沿った作品を最初の部屋に展示するような動きもあり、反発したが、「設立宣言」に沿うなどという作品は異常だ。今を生きる作家たち
たちが、一人一人の立ち位置で納得する仕事をしていく事が結果として「21世紀の新たな地平を拓かんとす」る歩みなのではなかろうか。そういう意味で、「設立宣言」はあっていいが、とらわれなくて正解なのだ。今回の展示からは、とりわけそんな事を感じさせてくれたように思う。2015.10.20-25
「職美展」あれこれ
2014年5月の「職美展」の合評会に呼ばれて作品を前にいろいろ日頃考えていることをおはなしさせていただきました。その内容をとりとめもなくメモしてみました。
●「社会的テーマと、その思いを作品にどう込めていくのか。込めすぎるとテーマ主義的な作品になってしまうし、その思いがみる人に伝わらないといけないし、微妙な難しい課題であること。」
●「作品の部分と全体のバランスのこと。人物の影のつけ方で、作品の部分部分は良く描けているが、全体的に影の調子が観念的になっているのは、実は対象から離れて適当に自分の頭で作ってしまっていることが、作品に見えてしまっていること。」
●「写真から作品にすることの是非。写真を見て描いた作品はすぐわかること。人の眼とカメラのレンズの違いから。カメラのレンズは対象をそのまま切り取るが、人の眼は切り取るのでなく総合的に、複眼的に、印象的に見るから、写真だけに頼らず、一本の線だけでもいいからぞの場での印象を描き留めることが大切なのではないか。」
●「自然の中の緑の色の難しさとビリジャンという色の扱いの難しさ。」
●「固有の色と作品を創り上げていく中での必要な色を見つけていくことの大切さ。とかくここはこういう色だったと説明してしまうが、色というのはそれぞれが響きあってはじめて色として成り立っていくので、固有の色だけの一人歩きでは絵にならないこと。」
●「いわゆる“バック”の扱い。ただ色を塗って埋めるのでなく、そこに空気をどう描いていくかという気持ちがひつようなのではないか。」
●「あるものを作品にするとき、暖める期間が重要であること。あの時のあの木というのが頭の中に引っかかっていて、でもすぐには作品化できないが、何か月、何年ずっと暖めていく中であるときふっと作品になっていくように、暖めていく中でいらないものがそぎ落とされていき、印象が増幅されていって作品化されていくこと。」
●「作品の前でずっと座り込んで見ていることが結構大切であること。作品が一旦描き終えた後、無駄なようでもその作品をずっと見ているとそのうち、ああ、こうしたいとかここを直したいとかいろいろ湧き出てくるものであり、見ているこも大切な絵を描いている時間であること。」
●「絵を描くという時、対象物やテーマについての“引っ掛かり”が描くという“動機”としてかなり重要なのではないか。」
などなど・・・・・
「大地の中で―心をたたくもの」
2014年1月、関西美術家平和会議の新春の集まりに招かれ、私の創作についてのお話をしました。その時の内容を「関西平美新聞」に掲載していただきましたので紹介します。
自分の創作の場を通しての社会との関わり
―「九条美術展」出品者のつどいー
4月16日から21日まで行われた「九条美術展」は第3回目を迎え、出品者も増え、展示も充実。憲法九条改悪の前段として96条改定が叫ばれて、集団的自衛権の容認と戦争する国への道を暴走する危険な情勢も反映して、美術家として何ができるか、また、何をすべきかを問いかける展覧会でもありました。
その「九条美術展」の出品者として、自らの創作と平和への思いを語り合う「出品者のつどい」が11月3日(東京・湯島にて)に行われました。パネラーには、浅野輝一(絵画)、尾関朝子(版画)、加藤義雄(コラージュ絵画)、中里絵魯洲(立体)、武居利史(美術評論)の各氏が立ちました。
浅野氏は自らの創作の歩みを振り返り、何をどう描くか悩んでいた時、ある人が自分の周りに一本の円を引き、「これが自分の立ち位置であり、この立ち位置で描けばいい」と教えられ悩みが晴れた話を紹介。自分の立ち位置は他の人には変えられない自分自身のエリアであり、そこで創作することの大切さを語りました。尾関氏はこの機会に自分の作品を振り返って見て、版画と油絵の作品に「自分なりに目指しているものがあったんだ」と自分自身の再発見の実感を話し、とりわけの社会性をもった創作ではないが、見た人との共感がとても大切であることを感じていると語りました。加藤氏はローコスト(素材と遊ぶ)でダンボール箱や空き箱、廃棄案内はがき等の素材を活用した創作を紹介。「遊び大好きな自分の愚かさをバネにして環境問題や宇宙空間を平面上で身体的に捕らえたい」と語りました。中里氏は社会と美術についてどうあるべきか悩んだ中で、国家の本質が「生命かお金か」というところにあると問いかけ、であるならば「命の気配をどう伝えるか、その装置としての万華鏡(不戦の鳥兜)」の創作動機を語りました。武居氏は美術としてどう政治に関わるかについて、自らの美術研究の歩みを紹介しつつ創作の中での「解放というイメージ」がキーポイントではないかと指摘しました。
その後会場発言のやり取りもありましたが、全体として自分の創作の場を通して社会と関わっていくことの重要さが様々な角度から掘り下げられた貴重なつどいとなりました。また、欠席された出品者から寄せられた100通ものアンケート意見も紹介され、豊かな内容をもちました。(追伸:第4回展・2015年1月11~17日、第5回展・2016年2月15~21日(予定)いずれも東京都美術館(上野)が開催・内定しています。)
百瀬 邦孝(九条美術の会事務局)
日本画の魅力
(日本画教室の皆さんとともに)
百瀬 邦孝
びんと貼られた和紙に墨を入れる緊張。下塗りをした時に広がる期待感。水干で色を付け始めてなんとなく嬉しさが出て、岩絵の具が紙に着いてきた頃からだんだん気持ちも高ぶり、岩絵の具が重なって微妙な色彩が浮かび上がってくるほどに画面に引き込まれていく気持ち。いつもそんなに順風満帆ではなく、行き詰まり、悩み、失敗して、の連続だけれど、そんな感覚に手応えを感ずる時がある。そんな時、「あー、日本画を描いているんだ。」と。
おひとりおひとりの画面に向かっている姿を見ていると、そんな、悩みと喜びの息遣いが自分の事のように伝わり、何という言葉を発していいのか逡巡し、言ってしまった言葉に反省をする日々でもありました。でも、それらの喜怒哀楽をちょっぴりでも共有できた(と思うのは私だけかもしれませんが)ことはうれしいかぎりです。
「何を描きたいの?」「どういう画面にしたいの?」などと失礼な質問の数々は、私自身への問いでもあり、今後いつまでもつきまとう課題です。何よりも絵を描きたくて、しかも忙しい仕事や、大切な活動を持ちながらの制作は、人知れず苦しいもので、自分しかわかってくれないことが多々あって、でもそんな時「ここでめげちゃあいけないよ」と叱咤するのももう一人の自分であったりして、そんな行ったり来たりの中でだんだん違う自分が出来上がっていったりするものかなーと、今さらながら考えております。
「現代美術」についての雑感
「現代美術」って
現代美術の規定は様々ですが、だいたい「第二次世界大戦後の美術」というのが通例になっているようです。となりますと、昭和22年生まれの私の生きてきた過程そのものが「現代美術」と一致しているのですが、ほとんどそれには影響されずに、というか、目もくれずに生きてきたというのが実感ではあります。
というのも、絵を描き始めた頃ももちろん、戦後の美術教育の中ではそのほとんどが「印象派絵画」に、その先と言ってもせいぜい「立体派」やシュールレアリズムに集中しており、戦後台頭してきた「アメリカ絵画」や「コンテンポラリーアート」などに触れる機会もありませんでしたから、美術と言えばそういうものだというふうに思っていても不思議はありません。まして、時々ニュースや新聞で流れてくる「現代美術」らしきものが、奇抜なボディペインティングやストリーキングといったもので、「ずいぶん変わったことをするものだ」くらいに見ていましたし、「芸術は爆発だ!」といったパフォーマンス的動向も、有名人や商品をモチーフにした広告的大量生産・大量消費的動向も、当時はなんとなく違和感を覚えたものです。
ですから、自分自身の絵も印象派的なゴッホに影響されたり、ロシアのレーピンのリアリズムに影響されたりしながらうろうろしていたものです。その後、なんとか日本画の世界に行きついて、和紙と日本画の画材にこだわりながらも、その伝統というか表現方法に不自由さを感じていたこともあったりしていました。
「現代美術」との接点
「現代美術」との接点はほとんどないまま過ごしてきましたが、その後二つのきっかけが「現代美術」とのかかわりをつくってくれたと思います。
その一つがアンゼルム・キーファーとの出会いです。彼は日本の作家たちに非常に大きな衝撃を与え、多大な影響をもたらしました。今でも私の知る多くの作家たちに彼の影響の足跡を見ることが出来ます。彼の創る空間はそれまでの美術概念を越え、あたらしい創造に満ちていました。
キーファーの作品を観たときの身震いを今も覚えています。それまでかたくなに「日本画」という枠の中で絵というものを考えていた私にとって、「表現するということはこういうことなんだ」「作品とは空間表現なんだ」と。そして、「ものごとを表現するときにより適切な素材が必要となり(必然の素材)、素材や表現方法は自由でいいんだ。要は何を描きたいかが最も大切なんだ」と。
キーファーの作品は、多様な素材を駆使し、これでもか、これでもかと、繰り返し描き込み、時には合成樹脂で固め、鉛や藁やいろんなものを埋め込み、重厚にそして精神性が凝縮された画面づくりとなっていて圧倒されてしまいました。
それ以降、いろんな作品をつくるとき、いつもどこか頭のすみにそのときの感覚が潜んでいて、「もっと自由になれ」「もっと描きたいことがあるだろう」と刺激するのです。鉛の板の上に日本画の画材で描いたり、いろいろなものを張り付けてみたり、日本画の表現を離れてインスタレーション的に空間表現してみたり。そうはいっても、日本画の表現にはこだわりつつも従来の枠からははみだしてやろうと、試行錯誤を繰り返しているのです。自分の表現方法はこれだと決めてしまわぬ方がいい、とにかくいろんな表現をして、結果、自分の納得する表現ができればいい、そんな風に考えるようになっています。
「現代美術」は受け入れられるか受け入れられないかというより、自分自身もその歴史の中にいて時代に対峙していくとき、「従来の枠を打ち破りつつ表現形式の流動化と新しい表現様式の発掘が行われている」(「ひとり語りの現代美術史」福田久美子)柔軟な創造を創り上げていきたいと思うところに「現代美術」の意味もあるのではないかと思うのです。
もう一つのきっかけは、村上隆や奈良美智らに代表される「現代美術」についてです。作品というよりそうした美術状況について「はたして・・」と考えさせられたことです。何しろこれらのフィギュアアートやお子様アートが海外美術市場で十何億という高価に取引きされて大きな話題となったのは記憶に新しいところです。バブル経済や世界情勢の変化、映像やインターネットの仮想社会状況などの時代背景の中での出来事ではありますが、先の表現形式の流動化も逆の意味で大きく作用しています。絵画とイラスト・デザインとの境界が怪しくなり、大人になりきれない大人と未成熟な子どもの想像の融合が美術の価値そのものの土台をくつがえす大きな意味での時代の反映であったのではないかと思います。
とはいえ、ここにはいわゆる商業主義と美術、創作者と鑑賞者といった「表現形式の流動化」だけでは語れない大きな問題があると思います。
さすがに、ここにきてそうした「ゆれ」の戻りもあり、創作スタイルと発表形式の新たな模索が注目され始めてきてはいるようには思うのです。
自分の表現と結びついたところで
一概に「現代美術」と言ってももう戦後60年以上たっている中でとてもひとくくり出来るものではありませんが、「現代」が現代らしく多様であるだけに、あくまでそこは冷静に、自分の表現と結びついたところで関っていくことが大切なのではないかとあらためて思います。
「現実を見据え、時代を切り開く哲学に裏付けされた時代の共感」
「歴史の重みと伝統を受け継ぎつつも常に新たな創造に向う飽くなき探求」
そんな私ならではの「現代美術」の創造に向って、これからも新たな挑戦を続けていきたいと思っています。
アンデパンダン展との出会い(年金者組合機関紙原稿)
働き始めた頃、それはそれで充実していましたが、つねに「このままでいいのか」「なにか自分が生きてきた証をのこさなくていいのか」と自問していました。仕事と絵を描くことを両方しないときっと悔いをのこすと…。 アンデパンダン展との出会いはそんな思いの中、出品を課しての生活の始まりでした。働きながら、また様々な社会的活動をしなが
ら絵を描くことは、大変なことです。でも大変だからこそ自分に創作や発表の機会を課すことが、とりわけ大切なのではないかと。何も著名な画家だけが日本の美術界をつくっているわけではなく、むしろ、働きながら創作を続けている多くの人たちこそが、広く日本の文化・美術界を支えていると言っても言い過ぎではないはずですから。
「時間がないから絵が描けない」という言葉を絶対に言いたくないと、とにかく、なかば強引に描き続けてきておよそ35年。今年も3月16日からアンデパンダン展が開催されます。プロもアマも若い人も年配の人もそれぞれがそれぞれの思いをもって時代を見つめた作品が並びます。特定の人による選抜(入選・落選)がないこと、鑑賞者と共感し
合うことで「質の向上」と「新たな価値」を求めていくアンデパンダンの形式は、自由な表現を保障していく上で大きな意味をもちます。最近やはりもっと落ち着いてじっくり描きたいな、多少とも無駄な時間がほしいなと思っているところです。
アンデパンダン展の魅力
百瀬邦孝
今年も3月のアンデパンダン展の時期を迎えます。アンデパンダン展は既成のあらゆる権威や名声、アカデミズムや商業主義の勢力に対峙して表現の自由と独立を高らかにうたってフランスのパリで発祥しました。
日本では戦後1946年、戦争への反省から平和と民主主義を求める美術団体として「日本美術会」が結成され翌1947年「発表の自由・表現の自由の最も端的な形態」として、日本アンデパンダン展が開催され、今日まで64回を重ねています。
アンデパンダン展は無審査・自由出品ですのでどんな作品でも出品すれば展示されます。その点だけをとらえて「素人展覧会」と揶揄する人もいますが、それはアンデパンダンの
意味を理解しない俗論です。
人の表現は人が「新たな創造物」を創り出すというきわめて貴重な行為です。技術的にうまい、へたの評価はありえますが、「新たな創造物は」その人ならではのものであって入選・落選といった評価にはあまり適さないものです。「新たな創造物」の本質のところで鑑賞者と深く共感しあうことで芸術としての「新たな価値」を生み出すものだと思います。それだけに、アンデパンダン展には既成概念に左右されない自由で多彩な作品や、時流に流されず時代を鋭く見つめた作品が集まります。
アマ、プロを問わず、そんな美術表現の面白さと新たな発見がアンデパンダン展の不思議な魅力です。ぜひご覧になって、様々な作品を通して作者と対話してみてください。2011.1
働きながら絵を描くこと
百瀬 邦孝
それにしても、働きながら、また様々な社会的活動をしながら絵を描くことは、大変なことです。でも、大変だからこそ自分に創作や発表の機会を課すことが、とりわけ大切なのではないかと思います。何も著名な画家だけが日本の美術界をつくっているわけではなく、むしろ、働きながら創作を続けている多くの人たちこそが、広く日本の文化・美術界を支えていると言っても言い過ぎではないはずですから。
私もずっと働きながら描いてきましたから、その大変さは身にしみています。働き始めた頃、それはそれで充実していましたが、つねに「このままでいいのか」「なにか自分が生きてきた証をのこさなくていいのか」と自問していました。仕事と絵を描くことを両方しないときっと悔いをのこすと…。
夏の平和美術展と冬のアンデパンダン展への出品を課しての生活の始まりでした。時間がありませんからいかに効果的に時間を使うかが決め手です。とにかく、まずのパネル作り、和紙張りが最初です。いつでもちょっと時間があったら絵の前に座れるように部屋に並べて。出品間際には、朝出勤前に色をかぶせて、仕事をしている間に乾かし、帰ってから夜また色をかぶせて、寝ている間に乾かし。絵の前にいない時も、「あそこはこうしよう。あの色をぬってみよう」と、頭の中で描いて時間をつくった覚えがあります。もちろんその創作スタイルは今も生きていますが。
「時間がないから絵が描けない」という言葉を絶対に言いたくないと、とにかく、なかば強引に描き続けてきて、最近やはりもっと落ち着いてじっくり描きたいな、多少とも無駄な時間がほしいなと思います。